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3.11は忘れない

 

今年の3月11日で東日本大震災から

10年という節目を迎えました。

そこで当社代表には全国の生協様より

数多くのコメント・文章依頼がございました。

今回はその中の1文章を原文のまま掲載いたします。

 

 

東日本大震災・原発人災事故からこの10年・・・

一言で書けば「悪くなった」。
あらゆる事象のスピ-ドがどんどん早く、

せわしなく余裕もなく心が失われて・・・
それを先が見えないコロナ禍は、先送りしてきた課題を

さらに露呈させ私たちを追いまくってくる。

悲しさ・怒り・憤りは、私に「考えて変われ!怒りの輪を拡げろ」と背中をたたく。

震災で私は変わったか? いや非力だが変わろうとしている70歳の私が
この10年、おぞましい姿になりこころを痛めつける多くの「課題」を

一つでも解決できたか。

夢みたいなことを考えるな!現実を見て・・・とある人に言われた。
「夢の途中が今です」と答えた。自分でかっこいいと思ったが、

かっこいい人生を選んであと何年生きられるか、日々自省の念しきり、

迷い迷い生きてます、夢が有るから。

「風化はしかたない、しかし考えることを止めないで」・・・

とある人が書いていました。
どういった意味でしょうか? 震災は忘れたい、なぜでしょうか?

私は「3.11を忘れない」と名刺に刷り込んでましたが、

何年も前からは「3.11は忘れない」と書いています。

私自身はもちろん、周りの人も当社のスタッフもそんな重く暗いところから

抜け出せれば、生き残った人生をもっと楽に生きれるのに、

と初めはそう考えて、でも苦しくて自死を考えた時も、楽になりたくて、

そして自分への遺言として携帯に日記を書いてきました。
2011年3月21日から3年2か月までですが出来事や心境を文字化することで

自分が少しは楽になることを知りました。
しかし振り返れば、重く暗い何かは

「言葉化して文字にできるシロモノではなかった」のです。
それでも多くのボランティアさんや組合員支援は私の背中を押してくれて、

避難所で人は思いやりを深め助け合い支えあい 私にとってはまさにユ-トピアでした。
しかし一旦そこを出れば、すべてを失い遺体もあり、

みんなが亡霊のように歩き回って拠り所も居場所も寄る辺も無くし・・・・

それも半年もたつと復旧復興の名のもとに極端な言葉ですが

「今だけ、自分だけ、お金だけ」、「震災前に戻るんだ」とみんなが走り始めた気がします。

それが正しいか別にして何もかも失った皆さんの心の支えになったようにです。

そうなると、震災前って?
お金って幸せになるため、目的なの?・・・
そういう疑問を押しのけて テレビに映る都会の普通の日常映像に震災前や
素敵な消費を重ねて、とにかく あの時に戻るんだと多くの人が必死になっていきました。

「どこに行くんですか、そんなに必死に」という言葉を聞かないふりで
「心の奥深く暗く重い何か」は、見たくない、見る必要も価値もないし震災前や

自分たちの未来はお笑いバラエティ-番組やきらびやかな豊かさの中にこそ

あるんだと言わんばかり走ってきました。
そう言えば何か月もたたずいち早く立ち上がったのは市内の大手パチンコ店、

入れないくらいの人で満杯だったそうな。
その心の奥深くの暗く重い何かを連想させるものや事からは目をそらし見ないでおこうと、

そうでないと不安の中で先も見えない中で意味もなく生きていかなくてはならないから。
パチンコ店のように、建設土木や大手広告会社はこぞって甘くおいしい利益を

求めてどんどん入ってきた、火事場泥棒のように復興の名のもとに。

「寄りかかること・拠り所になる心の支え」が無くなって・・・そこにこの国は官民一体で、

世界の競争下で追いつくためには「時間あたり生産性を上げる」んだと。
マスコミも一緒になって競争やスピ-ド、生産効率を企業や工場の目指すものに

なって行きました、この10年です。当然働く人は、そういう流れにならないと
昇進の道を閉ざされ降格や雇用環境が変わる=生活困窮者になりたくないと必死に

働くことで生き残ろうとする。まして被災した人や企業はそれ以上に追いつけとばかり、

同じ道を走ることになります。
心の支えであるべき例えば家庭もその流れから逃れられないでお金で

教育や衣食住を満たそうとするかのように、いろんな意味で楽しい消費に走っていく。

豊かさや幸せはお金で買えるんだと言わんばかりに。

急いで急いでと・・・行く先はどこなんですか?

かく言う私も被災した経営者として再開に悩みながら 過去を振り返れば、

圧倒的多数の経営者の一人として収益を求め借り入れを返すという事業を展開してきました。
祖父の代からですと2011年で創業106年になって思い返せば何かいつも借入返済にも追われて。

ガレキの中で自問しました。再開してどこに行くんですか?

「少し立ち止まって・・・考えてみませんか」・・・ 私は考えました。

会社や働く人は何のためにあるの、これまでとこれから自分の人生って、家族って、
そんな解決もつかない疑問で 被災し残骸しか見えない黒一色の世界の中、

79名を解雇し全壊の3工場と自宅を前に歩き出すのか、やめるのか、必死に考えました。
それでも避難所はこころの居場所になり延べ1500人の全国からの生協職員や組合員、

学生ボランティアさんたちは、崖のふちにようやくしがみ付いていた私に手を
さしのべ引き上げてくれました。
そこでその場所から一人で

「歩き出すための自分自身の力の基=納得できる理由」が必要だったんです。

そんな私に周りは、 雇用して給与を払い仕入れして物流費を使い販売先の

利益を生み税金も払う、それで十分役割を果たし社会的貢献し存在意味もあり、

だから必死に震災前に戻るんだ。そんなことを迷い考えていると会社を閉めることに

なるんだと言うのです、常識だと、そして今日明日の飯が一番大事だと。

 

<歩き出すための会社の存在意味>
それでも・・・会社再建の意味って何だろう、

本当に必要とされている会社であり私だったのかと悩みました。
一人住まいの仮借家で押し入れを仏壇代わりにし急ごしらえの位牌と

ヘドロで汚れた父母の遺影を前に線香も上げずにリンを大きく何度も何度もたたいた。
当時60歳という年齢、創立から106年という「会社の歴史は関係ない」

「選べないお前が悪い、自分の人生自分が選んでお前の好きなように生きろ、

歴史は考えるな」という声を聴いた気がしました。

そしてたどり着いた答えは「この地で真に必要とされる会社になる」と・・・

それじゃあ何が必要なの?
ここで今必要なのは「真にこころの復興」だ!

それをスロ-ガンではなく「かたち」にしようと。

 

<異常なこだわりが生むメッセ-ジ>
12生産ラインあった中で津波堆積物(ヘドロ)50トンをかき出し、

その中の1生産ラインを皆さんが洗って磨いて、修理して工場内を何重にも

壁を作り外の汚れ切った外と遮断し2011年10月1日から「おとうふ揚げ」を作り始める。

レシピ-もない、放射能汚染を避け北海道でタラすり身を調達し

5日間少しずつ作り冷凍した1000kgをすべて捨てるといった、その日の午後・・

「こんなにみんなで必死にここまで来た。」
「震災前の美味しさにもどったんじゃないですか!なぜ捨てるんですか!もう辞める、帰る!」

「これまで売り上げゼロなんですよ!」と戻ってきた若い職人たちが目を吊り上げ

けんか腰の大声が床壁が汚れたままの事務所に響いた。
79名のうち 男女23名が戻ってきた。

職人たちも6月ころから自宅の片づけもしながら通い私と共にヘドロまみれで

必死に再開を目指してきた 気持ちは痛いほどわかる。
私はゆっくり言った「震災前を遥かに超えるものを作り、そしてメッセ-ジを込めるんだ」

これでは「震災前に戻るだけだ!どれだけの人がボランティアで来てくれたか、

その人たちがどんな思いをもって来てくれたか、まして組合員はお金を出して

買ってくれるんだ。あり得ないだろう!」・・・

みんなで、メッセ-ジが込もる練り物をという話に

「メッセ-ジって?」とは誰も言わず、それを作ることを全員が了解した。

一人のスタッフが言った「どうしたらいいんですかぁ!明日から」、

そしてまた格闘が始まり、昼食も入らないくらいの試食と廃棄が何日も何日も続いた。

そして今では製造はもちろん事務所スタッフ全員の試食が続く、2600日を超える。

単においしいまずいではなく製品ごとに作った口の中での

その演出変化は暗黙の「設計図」に沿っている。

口の中でほぐれ方から唾液と混じった旨みの質や香りや後口まで全部の製品に設計図を作ってきた。

上手くいかないときは生産ラインが何時間も止まり廃棄される製品も
時に重箱の隅をつつくような意見だ、何が分かるんだとけんか腰で現場とは幾度となくもめた。

食べる皆さんには分からないレベルの本当に微妙なブレ・ズレもまた修正する。

生魚を使うから、なおのこと大変だ。難しい道を選んだが、無添加を求めると終わりがない。

試食中は会話せず一人ひとり口に集中して目をつぶって素材が生きているかを探し続け、

それを受けて製造は悩みに悩む毎日。迷うから考える、考えるから新たなところで迷う。

毎回魚処理から始まることで困難さを増す無添加の練り物の製造で、

答えはないから毎日毎ロット「悩み考える」というその終わりのない繰り返しが、

時給900円と少しで毎日ひとり当り数百キロの魚を処理する3Kの

誰しもやりたくないだろうに頑張るスタッフも、早朝の魚市場担当も

機械を追いかけ包装するスタッフも、製造のスタッフも、事務所や開発や菌検査、

営業や出荷担当も、考えることを通じ製品に、何らかの曖昧かも知れないが明確な

「メッセ-ジ」がこもっていく。手塩にかけた子供のように。

もしかしたらお金を儲けるための道具と化しつつある素材も泣いている世の中の食品に対して、

違うでしょう!と「心を込めたかたち」にしてこれもメッセ-ジを出しているのかもしれないと

少し「自分たちの役割」が分かってきた気がする。

 

<自慢のスタッフ達>
そして私は本当にそのみんなの頑張りに今も毎日、本当に頭が下がる思いでいる、

気ままな社長によく耐えている。
新工場が稼働して初めての2014年新年会でいつも長いからと社長挨拶を

お開きの手締めに回された。大概酔ってしまい、30数名のスタッフを前に、

ふらふら立ち上がり、ただ一言だけ「みんなは、ここ何年も苦労したなぁ、

ホントに頑張ってきたなぁ、有難う!」と深く頭を下げた途端、涙が出た。

顔を上げた。「社長が泣いてる!」って近くのスタッフが言った。

「バカヤロウ。飲みすぎたからこれは酒だ」と言いながらみんなの顔を見た。

一人ひとりの震災、傷と痛みを抱えてここにいる。

全員、目が潤んでいた。忘れられない、絶対忘れてはいけない。

 

<若者たちとの出会い>
そんな中 出会ったのは、無駄で非生産的で厄介者で社会におんぶしている

「社会的弱者」である「引きこもり」の若者たち。
震災から二年目 あるNPOと出会って、石巻広域圏で1000人は下らない

引きこもりの若者たち(15~39歳)がいることを知った。

新工場のハ-ブ畑の草取りに10人以上がNPOと無償就労体験に来た。

顔を上げない、目を合わせない、声も出さない、作業はゆっくりすぎ、

声掛けに固まって無反応、目が死んでいるような・・・何か震災直後、

亡霊のようにうつろな姿で行きかう被災者たちと重なって見える。
震災前に採用していた障がい者ともちがう、その姿から受けた衝撃は忘れられない。
NPOに聞けば、彼ら彼女らは、その存在を無視され、見たくない、

この社会で不必要な存在と自己否定し居場所もなくこころの拠り所もなく、

人間性さえ否定されたこともあり引きこもりが続いてました。
それは唯一生産性も協調性も会話すらできない無業の弱者、

怠け者だから存在価値はないという烙印です。ここでも生産性・・・・生産性って何?

 

<背景>
何があってそうなったのか、NPOの責任者が少しずつ個人情報を話してくれた。

「背景」だ。ある女の子は、児童虐待・子供の目の前でDV・離婚・ネグレスト・

障がい者認定と薬で目が死んでいた。

急げ、返事は?遅い、はっきりしろ!と怒号の職場で辞めた若者、

震災で祖父を亡くし上屋が無くなった自宅の床下でだれかの流されてきた遺体を見て

トラウマになった兄弟、ここがいいと就労訓練に片道1時間以上もかけて当社にくる

10年も引きこもってた男性は、初めてもらった手当で家族に買った小さなケ-キを

もって帰り母娘がうれし涙で食べた。
翌日戻ってきた父親から怒鳴られまた半年引きこもる。精神病の認定を受けさせない、

生活保護も申請しない無業の母親が娘一人のわずかな収入におんぶして薬も高いからと飲ませない・・・

いろんな背景が一人ひとりの心を閉じさせてきた。
震災時、大好きな親に甘えられず「健気(けなげ)」にいい子を演出してきた子供たちが沢山いた。

そして自分を抑えて表現するすべを無くし不登校に、そして中には暴力やいじめや、

そして引きこもりになっていくとある先生が言う。

学校や仲間や家庭や地域さえも背を向けているように感じる。

 

<若者から見える社会の姿、若者たちは世の中が作った>
「社会の課題」が見えて、その中で翻ろうされてきたたくさんの子供や若者たちがいた。

貧困、教育や賃金や地域など多くの格差、差別、DV、児童虐待、PTSD、ネグレスト、

いじめ、非行、ワ-ストで 県内4100人の不登校、情報の氾濫と依存・翻ろうされ

行き場も居場所も拠り所もない人たち、享楽、まかり通る虚言、鬱症、精神的病い、

経済優先、地域崩壊、希薄な関係性、弱者切り捨て、自死、無力感、自己否定、

自信喪失・依存症・・・数え上げたらきりがない。そこに震災が拍車をかけた。

・・・・何か私たちや自分の中にもあるんだとふとそう思った。重ねてコロナ禍が襲っている。

 

<こころを取り戻す>
震災前の2.5倍の借入をして2016年、売り上げも震災前の60%に満たない。

そんな中で野菜加工場を作り 引きこもりの若者たちとの並走、いわゆる就労支援を

と構想をと役員たちに打ち明けた。「何を考えているんですか」というものもいれば

黙ってはんたいを表明する者もいた、拡がって全スタッフが恐らく反対しただろう。
売り上げは戻らず借り入れは多大で、おまけに「あんな子たちに仕事を一から教えて

作業させ収益なんか出るわけがない」「年間1億円もの返済しているのに、

新たな2億円近い借り入れで慈善事業なんてやっている時ですか!」
二年かかって少しずつ説得した、しかし私には思いだけで説得力ある計画がなかった。

せめて「あの若者たちが笑顔になって元気になると我々も元気になるべぇ(なるでしょう)」

「お金は必ず回っていくから(多分)(笑)」 手取り足取りの毎日がありカットレモン、

カットニラ、カボチャや茶豆など今ではホウレンソウやカットシイタケまでこなし

それ以上に6名が会社に就職してきた。まだ週4日の子もいる。

本体の練り製造部門の(多分以前の反対派)担当は、子供と話をしていて奥さんから

褒められたという。「あなたは変わったね、向き合い方も話す内容も」と。

練り製造で考えて悩んで来たことと

間接的に野菜加工場の若者たちとの触れ合いが君を変えたと話した。
彼が言った「社長の言ってた人間性ということが少し分かった気がします」

・・・私は陰で小さくやったぁ~と叫んだ。

赤字でも野菜加工場の若者たちは私たちも変えている。
野菜加工場の責任者の私の長男も人の心を深く考えるようになっている、人は変われる、

変われば別のステ-ジに乗り移り、別の光景が見えてくるとそう信じたい。

いいニラや糖度19.6度のカボチャの時は、手も早くなり 生産者の意気込みや

その野菜の力が若者たちの作業を楽に早くしていると感じる。

工場見学しに来て「自分たちのニラが若者を変えた」といいニラを送ってくる

栃木の生産者団体は、自分たちの役割を知った。

 

<人は変われる、仲間と一緒に>
生産者から加工、組合員へと思いはつながって 野菜が若者を変えている

・・・といいことばかりではない。

毎日の振り返りは、若者たちのこころの揺れが文字の裏に見えている、

二歩進んで三歩さがる、また二歩進んで三歩下がるんだなぁって

若者たちに話したら「下がりっぱなしでないですかぁ」と喋るようになった女性が言った。

「違うよ、下がった後の二歩前進は別のステ-ジへの二歩、

その移る力と別のステ-ジはきっと別の世界だよ」と同じことを話した。
草取りの時から見れば 考えられないくらい変わって、もの凄いところにいるんだ、

今はたくさん迷って一人悩んで、落ちても彼ら彼女らには居場所・心のよりどころ・

何より同じ心の傷を持つ仲間がいる・・・作業を通じてみんなの課題を解決する、

解決できる作業を皆で考えて工夫して。

信頼できる環境は、誰も作ってくれない、先ず自分が変わることなんです。

 

<この地で灯りっこ(小さな灯り)になる>
「この地で力になり、笑顔になり、自ら光になります」と7年前の新工場落成式で

30名弱のスタッフが来場者の皆さんの前でおおきく語った。

今練り工場のスタッフも、特に自宅で邪魔もの扱いの野菜加工場の中には

10年もなる「元引きこもりたち」は弁当持って 朝、或いは昼から出てきて

若者たちの「家に小さな灯りっこ(灯り)」が灯った。
近所の世話好きのおばさんに小さな声でも挨拶する、何日かして彼女から挨拶すると

若者がオハヨウゴザイマスと小さな声で相手の顔も見ないで返す。

「近所にも灯りっこが口コミで増えていく」、野菜加工場で「大きい小さい、かすかな。

消えそうな灯りっこ」が集まる。何年も前に練り物工場でみんなが騒いでいた

「あの娘が笑ったんだよぅ」「えぇ~!ウソ~、ほんとに?すごい!」って

灯りっこが飛び火した。ここで力になり笑顔になり自らが光になり始めた。

 

<迷うから考える、考えるからまた迷う>
そして知恵を出してやってみる、また考える。

小さな失敗にも小さな成功にもその先にも夢がありその「足元は一歩ずつ夢を歩いている」
震災は沢山のことを教えているとそう考えてます。

聞こうとしない、見ようとしないから風化する。

だから違和感を大切に、うぅ~ん?と感じたら 考えよう。
若者たちも、沢山のことを発信し教えてくれている。練り物を、正解のない道を求める、

何かスタッフの言った人間性と言うことが私も少し分かった気がするんです。
二歩進んで三歩下がり、また新たな二歩を進んで、迷いまた三歩下がる。

スタッフも若者たちも迷えば私も考え、一歩進む。
共に迷い進んだ私を見て彼らもまた互い一緒に進む。

「真にこころの復興」が、野菜加工場や練り製品冷凍食品工場として

「かたち」になったから、もう逃げられない(笑)、逃げたくない、

あの79名を解雇した苦痛は、私もだが何より今の43名のスタッフにも

絶対に味合わせることはしない。ここで光になっているスタッフ達がもっと輝くために止められない。
「かたち」は、ただのスロ-ガンじゃない、この社会へのただの批判や反論ではない、

NO!というからには「かたちを作りその中に夢を詰めていく」こと、

「夢を歩いていくとかたちはまた新たな姿を現す」んだと、

被災地からの小さくても大きな発信だ!と・・・自分に言い聞かせている。

日々の家庭生活や会社でも周りの世間もまだ未完成 私は非力ですが、

しかし考え迷うことは止めない?なぜなら夢にみた世界があるから。
年賀状に書いた言葉ですが、自分自身もスタッフ達もみんな

「もぞこい(けなげに頑張っていて抱きしめたくなるくらい可愛い)んです」

 

<自省>
気まま、我がまま、自省ばかり、さびしがりや、弱音を吐き愚痴を言う、

そんな経営者とは言えない社長として家庭は△、会社でも△、迷い道、今も真っただ中。
震災後「思い」と「事業」の両輪をと別々に考えていたが、どちらが強くても前に進みにくい。

だったら二つを一つにしたらと考えたのはいいが、よろよろと 頼りなく、

回転が落ちると何とかスタッフや心ある取引先や仲間がいつの間にか回してくれた、

そんな状況で今更ながら縁や周りの心ある力に救われてます。

正直、あまりにひどい「世間」の人や事ごとに腹が立ち人の愚かさに悲しくなります。
なんてことだ!と「見下す」ように厳しくなったり攻撃的な老人になったり、

あまりの世情に私の「笑顔が消えて」何年にもなります。
辛いです、自分の力のなさに、落ちてしまうこともたびたび。
どこに行くんですか? 「大事なこと」「大切なこと」「譲れないこと」

の三つが揺れるたびに私の判断の支えになっていました。
曖昧な概念ですが「こころ」を見つめていきたいと 曲がり始めた背中を伸ばしています。

 

 

株式会社 高橋徳治商店  代表取締役 高橋英雄

 

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