関 明美さんへ
借金に追われたこの何十年、今度は夢をもっと追いかける残りの人生をと考えています。そう言った意味で震災のようなことは、実際あってはならないのですが、自分の道を見つけたような気がします。
6月25日あいコープ福島という所の総代会に生産者代表として行ってきました。
組合員も県外避難して20%も減って2600人、今年の供給高が5億円台の生協でホールボディーカウンター、2000数百万円を買うかどうかが議論されました。
様々な意見が出た中で、14歳の女子中学生が母親についてきたのですが、総代会が終了間際 「発言させてください!」と立ち上がり母親もびっくり。
理事長が皆さんに聞いて発言を許可しました。
「私達は選挙権もなく意見も言えません。しかし日々放射能で悩み苦しんでいます。皆さんは反対運動をしているのでしょうが、殆どの大人たちは賛成か、反対でも大きな流れになりません。大人になって福島の子とは結婚させないとも言われていること聞いていますが、半減期の30年後私達は44歳、もし結婚できて 子供を産むことで悩み産めばその子と何十年も被曝について悩みます。私達のこれからの未来を奪ってしまった。
体温計のように体調がすぐれない時直ぐに数字で計れるようにホールボディーカウンターを買ってください。自分でチェックして生きたいのです。
ビクビクして生きるのは辛いけど、はっきり自分は状態を知りたいのです。未来を返して下さい!」。何度も話に詰まりながら涙を流しながら訴えて原稿を読み終えました。
60数名の総代、15名の来賓、司会も理事たちも涙しました。
感傷なんかではなく、自責ややるせ無さでもなく感動でもなく、鳴り止まずどんどん大きくなる拍手は何か強い意思のようなことを感じた涙でした。
郡山市内の公園の砂場では6マイクロシーベルト、除染して一時は下がったがまた計ったら7マイクロシーベルト、野菜も一時限界以下になりまた前より多くなった。。。まさに ここで住んでいる人たちの、未来の子供達の現実を感じてきました。
私達は地震津波で地獄を見てきた、それは忘れられないが30年もすれば風景と共に記憶も悲しさも薄れることでしょう。
しかしここの沿岸部も含めて内陸部はずーっと真綿で締め付けるように苦痛と不安の中で生き続けなくてはならない。低線量被曝とはそういったことだ。
逆境の中から奇跡的に復活してきたと私やスタッフを絶賛してこの地の皆さんに勇気をくださいと何人もの組合員が握手を求めてきた。
しかしこの福島の現実は、語る言葉がない。
マルトの社長さんとツゥショットしたらと中学生の娘さんとカメラの前に立ったがシャッターの音さえ聞こえなかった。「オジサンは頑張るからね」と言うのがやっとでした。苦しみ抜いてきて今も明日が見えないから私の一言一言を噛みしめるように聞いては自分たちの力に変えようと一生懸命な目が辛い、総代会でした。
これが現実なんです。娘さんも私たちがこの世にいなくなっても死ぬまで或いはその子供の一生を負えない責任の重さを抱えながら生きていくしかない。
普通の生活が欲しいと帰り際、その子が話してました。
私にはもっとやるべきことがある、原発事故の放射能の現実をしっかり受け止めねばならない。
まだその子の言葉や泣きながら訴える声が聞こえるようです。
色んな社会的問題がある。救われた私は救う側で残された人生を生き抜きます。
明日が見えない、だから明日を作るしかない。
互いに前を見て元気に生きる時間を。。。