グリ-ンコ-プ追悼集会に参加された皆様へ
震災で何もかもなくしたから分かったことがある。しかし悟った訳ではないし被災者を代表している訳ではありません。
偉そうなことをと聞こえたら許してください。
なぜあなたはここに来てここにいるのか…考えてみて下さい。
申し訳ありませんが追悼集会とは誰に対し何に対してなぜ追悼するのですか、考えて下さい。
涙を流したらその涙はなぜ流れたのか自問して下さい。流れたのではなく流したのなら
流そうとする意思ですか、スイッチが入って流れたのですか。
失礼なことを書いています。
二年前の3月10日に初めてテレビであのおぞましい映像を見た、一人で何時間も
嗚咽していました。私は現実から逃げられない、しっかり見るんだ!って。
テレビのスイッチが切れなかった。。。。それから涙を流して外に出ました。
何もその光景が変わってはいなかった。。。涙で傷が癒えるには時間がたくさん必要です。
沢山のしかも未だに物心両面で支援を頂戴している、なぜですか。
我がことのように未だに何が出来るのか考えて下さっている…なぜですか。
職員や組合員を代表し理事さん達が沢山片付けやらにお出で下さった、なぜ来てくれたんですか。
それが人間だからと言われるなら震災を忘れた人達は人間じゃないことになる、その人間とは?
「食」とは何でしょうか。身近なことで言えばで言えば生協の注文用紙に「イチ」と書く、その重さをどう感じてますか。
ひねくれた問い掛け、失礼な問い掛けだと重々承知してます。
でも考えて下さい。背筋を正して考えてみてください。
生きて行ける(かもしれない)
変われる(かもしれない) ・・・そうあれは何だったのか、未だに問い続けています。
当たり前だった言葉や考え方や日常が分からなくなったんです。
だから必死に考えて来ましたし今も考えています。
当たり前に過ごしていた日常が家族知人が一瞬で消えた。
当たり前の素晴らしさが分かったと言う方と解らなくなったと嘆きながらその意味を探す方に分かれている。
両方に言えるのは震災以来何か重いものが日常に付きまとい離れない、またこれまで生きてきたその時間が
大切に意識して使われなかったとは言えないでしょうか。
あの2万人の亡くなった人たちは、生きていれば何十億時間も人と関わり何かを作って
誰かのために生きたかも知れません、、、、もしかしたら代わりに何倍も感じ何倍も
喜び何倍も何倍も限られた時間を生きて欲しいと死者たちがそこで私たちに懇願している、そんな気がするんです。
格差、自殺、鬱病、児童虐待、DV、引きこもり、食の大切さ、環境や資源、拝金、豊かさ幸せ感、差別、殺人、喪失感、教育・・・悔しいくらい何も変わっていない。
最後に、、、、皆さん。本当に本当に大切なこと、大事なこと、譲れないことを
一緒に考えて見ませんか。
昨年7月5日、高台に新社屋が完成しました。そしてスタッフは約束しました。
「私たちはこの地で光になる、笑顔になる、そして力になります」と。
有難うございました。 (真手)マデイに生き続けています。
2014年3月11日
宮城県石巻市 株式会社 高橋徳治商店 代表取締役 高橋英雄